ニワトリの獣医師と呼ばれたくて 

〜一所懸命から一生懸命へ〜

鶏卵肉情報 2003年4月25号
新連載)
第二話)

 白田一敏

 【ニワトリの獣医師と呼ばれたくて】A〜一所懸命から一生懸命へ〜

 【獣医師のタマゴになるまで】
 真っ暗なトンネルから抜け出すために、筆者はニワトリの獣医師を目指すとにした。筆者の決心は、両親をはじめ、養鶏場の社長など身の回りにいる大人達を喜ばせることになってしまった。彼らのそれぞれの思惑が次第に大きな期待へと変化して行くことを、子供ながらに筆者はヒシヒシと感じ取っていた。

 筆者の父親の思惑:息子が獣医師になって、ガッポガッポ稼げば自分の老後は安泰だといった単純なもの(筆者の思考も同次元であったが…)。

 養鶏場の社長の夢:経営者らしく「自分が大きくした農場が子供達に魅力的であり、自分の子供達と農場で育ったスタッフの子供達が力を併せて夢のような農場を運営できたらどんなに素晴らしいだろう。」(折に触れて集まった子供達を前に熱っぽく将来の構想を語っている若き社長を思い出す)

 当時の養鶏場の規模は、十万羽程度も飼っていれば大規模と呼ばれていた。筆者が小学六年生になった頃、高床式(ニ階建鶏舎。二階にケージがあり、其処にニワトリが飼育されて、一階に鶏糞が落ちる仕組み)と呼ばれる当時としては巨大な鶏舎が登場した。装置産業としての採卵養鶏業変異の皮切りであろう。当然のことながら器が大きくなっても、そこに魂を入れなければ、本当にタダの箱となるだろう。いくら設備を機械化(デジタル化・オートマチック化)しても、働く人々が優れたアナログ感覚をもって管理しなければ、手から水がこぼれるように利益が逃げてしまう。『仏作って魂入れず』の状態といえる。

規模が大きければ大きいほど、この遺失した分は莫大な金額になる。筆者は最近になって、ようやくこのことを痛感できるようになってきた。

 子供達に夢を語っていた社長の心情は、今になってみると理解できる。しかし、当時の筆者の心は「この真っ暗なトンネルを何とか抜けだしたい。」、そんな気持ちで心の大部分が占められていた。

 こうして人生の方針は決ったものの、獣医師のタマゴになるまでの道のりは常に父親からのプレッシャーとの戦いだった。
高校に進学が迫った頃のことである。
「一敏、おまえ高校に行くのか?」と父。
「・・・。」
何を言われているのかが分からない。
「高校は義務教育じゃないゾ。もし行きたければ、行かせて下さいとお願いするんだナ。」と父。
「行かせてください。お願いします。」面食らって筆者は返答した。
「分かった。じゃあ、S高校(地元の進大学)に行け。それ以外はダメだ。」と父。

 当時すでに、子供達はチヤホヤされるのが当たり前の風潮になっていた。学習塾に行くことは当たり前。学習塾に通うのに、親が送り迎えをするといったような過保護なケースも見られはじめた頃である。こんなことを羨ましいとは思わなかったが、高校に進学することは当たり前だと思っていた筆者は非常に『親父、何を考えてやがる』と、その理不尽な扱いに大いに憤慨したものである。

 父親になった今では、父の行動は決して非難されるばかりではない、と感じられる。父が昭和一桁生まれで特別頑固だったから、少しは歪んだ躾だったかもしれないが・・・・。

サッカーに明け暮れてはいたものの、筆者にとって高校生活の最大の目標である『大学入学』が片時も頭を離れない。

『どんな大学があるのか?あるいは、何処の大学が最適なのか?』といった情報を全く欠く著者は、父親に、「ドクターK(前号に触れたように、筆者がニワトリの獣医師を目指すキッカケとなった方)に、このことを質問してくれ」と頼んだ。

ドクターKは、小さな紙に、

『国立大学:◎北大、◎東大、◎岐阜大、◎鳥取大、公立大学:大阪府大、私立大学:△麻布大、・・・。』
といった内容を親切にメモした小さな紙切れを下さった。

 この瞬間だった。これまでの『ニワトリの獣医師になりたい』という漠然としたものが、具体的な目標に変化したこと感じたのは!!
その意味ではドクターKは人生最大の恩師と言える。

 この時から、メモを書き付けた紙切れはお守りのような存在となった。筆者が精神的にくじけそうになった時、あるいは、気持ちを奮い立たせなくてはならない時などは、何度も何度もそのメモを見返したものだ。

これは大学を卒業するまで机の引出しに入っていた(なんせお守りですからね)。

 具体的な目標が定まったところで、獣医師になるための大学のことを色々調べてみた。結構狭き門であることにビックリさせられた。これらの大学は、全国に国立・私立を含めるとわずか十五校しかない。生活事情を考慮すると、当然選択肢は国立大学のみとなる。国公立大では一大学あたりの定員は三十人余り、全国に十校なので三百人。

 たったこれだけが筆者の選べる門の広さなのである(現在では、国立の獣医科大学を統合して、さらに少なくするという案もでているらしい)。

 また、当時、愛玩動物(ペット)ブームなどもあり、獣医師(犬・猫を対象)という職業は、人気が非常に高かった。現在でも、その人気は維持されている。特に、『動物のお医者さん』という獣医学科の学生を主人公にした少女マンガの影響で、女子学生には人気の的だった。筆者が目指していたのは、犬・猫のお医者さんでなく、『ニワトリのお医者さん』であるが、人間以外のすべての動物は、獣医師の守備範囲となる。

 もっとも親しいの犬猫開業獣医師は、『トカゲ・ヘビなどのエキゾチックアニマルの診療は困る』と言っていた。女性志望者はとても勤勉なので、たちまち、合格ラインがアップするのだ。このため、必要な点数は考えていたものをはるかに上回り、それをしった時の愕然とした思いは忘れられない。

ハードルを越えることが難しいからといって簡単に諦める訳にはいかない。
「一生、毎日毎日、ニワトリに目薬をやるような仕事はいやだ。」と思い、必死になって勉強したのだから。

 当時を振り返れば、この気持ちは子供ゆえに、の非常に単純なものだった。養鶏場の業務は毎日がワクチン作業ではない。また、努力して会社幹部になれば、良い暮らしもできる。

 しかし、当時の筆者の原動力は、このような【思い込み】であったことは間違いない。

【受験の日、そして、嗚呼!!再出発】
 必死の努力の甲斐もあって、受験時には、学力では一応勝負できるレベルになっていた。高校三年生の夏過ぎ頃から、夜の食卓の話題は決まっていた。

「今度の試験は、どうだった?」と父。
「ギリギリで受かりそうなレベルかな。」と筆者。
「そうか。大学受験のチャンスは一回だけだゾ。もし、ダメだったら、ワクチン打ちの仕事だぞ。」
「・・・・。」
筆者は無言で対するよりない。

 当時の採卵用育成場では、大規模になってくるに従って一回の餌付け羽数も増加していた。三千羽が五千羽になり、一万羽になり、二万羽になりといった具合だ。

 加えて筆者の住んでいた関東地方は養鶏場が密集し鶏病も多かった。対応しなければならない鶏病がたくさんある。つまりは、色々な種類のワクチンを何回も接種しなければならないということである。
 ワクチン作業の負担が重荷になっていることは、当時高校生であった著者の目にも明らかであった。父親の言葉は決して脅しではない。

そんな日常のプレッシャーと戦いながら、受験日を迎えた。
『この試験で自分の人生のすべてがこれで決ってしまうのだ』という逼迫したストレスをご想像できるだろうか。気の弱い筆者はこうしたストレス下でとても試験に集中できなかったのだろう。

玉砕。

 自分の名前のない合格発表板の前で筆者の目の前は真っ暗、頭の中は真っ白になった。真っ白になった頭でぼんやりと『家出をするかァ・・・。給料を貰えながら大学にいける防衛大に行くかァ』と考えていた。
この時防衛大へ行っていたら、今ごろイラク戦争に戦々恐々としていたのかもしれませんね。

 試験結果発表の次の日、家に一人で塞ぎ込んでいると、電話のベルが鳴った。受話器の向こうに聞こえる声の主は、ドクターK。

「試験失敗しちゃったんだって!」とドクターK。
「ハイ・・・。」と筆者。
「そんなこともあるさ。また頑張ればいいサ。」
「・・・ハイ。」

 考えてみれば、筆者はそれまでドクターKと直接話をしたことがなかった。父は、仕事の話をする際に子供を同席させることを嫌ったのである。

 少々戸惑ったものの、その力強く前向きな口調に一筋の光明をみた思いがしたものだった。

 筆者の失敗を知ったドクターKは、父親を長時間説得して下さり、再度チャレンジするチャンスが与えられることになったその場で筆者に電話を下さった、ということを後になって知った。

 ご自分の口でそれを告げずに、励ます言葉のみ口にされたドクターKの心の内はどんなものであったのか、今もって確認していない謎のひとつである。

第三話につづく。


筆者:

潟sーピーキューシー 品質管理&生産管理部門長

白田一敏 (獣医学博士/獣医師)


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